インフォメーション 〜time now〜





 毎年、1月に昨年の振り返りと今年の抱負を書かせていただいていますが、昨年末に永続勤務(20年)で表彰されましたので、この20年を振り返りたいと思います。長くなり、文字数も増えるので覚悟して、最後まで読んでくださいね。

 私が光心会に入職したのは、クリニックから病院へと移行する直前の2000年でした。入職の契機は、武居(院長)からのアプローチというよりは、武居の目論見にまんまと嵌ってしまったと言う方が適切でしょう。でも、「ここで頑張って、働こう」と入職を決めたのは自分です。入職当初は、自分が理想とする組織や看護からかけ離れた現実に、途方に暮れ悲嘆しました。私が何から始めたかというと、環境整備です。その後、書類と業務整理をして、看護体制を構築、看護計画(問題思考型)の導入をしました。「看護計画とは…」から始まったので、時間と体力を消耗し骨が折れました。開院後5年は、看護師不足と人間関係に悩み、振り回されました。歳をとったからといって人格者になれる訳でも、賢くなれる訳でもありませんが、その当時の私は、今よりももっと人間的に未熟で、相手に正論を押し付け、正義で相手をぶった切っていました。その癖に、人間の中の弱い部分も持っており、「いい人」と思われたかったのです。それが、一定の職員には日和見の人に映ったのでしょう。誤解をされて、強い反感を買い凄まじく激しい攻撃も受けました。業務改革や看護体制構築に協力してくれる職員からは、「仕事ができて、信頼されているから嫉妬して妬んでいるだけ」と慰められ、クリニック開院から勤務されていた古株で一回り以上年上の看護師さんからは、「岩根さんは、凄いです。」と応援して頂きました。この時、「良いことも悪いことも、自分の口で伝えること」「本人の前で言えないことは、陰で言わないようにすること」を学び、教訓にしました。また、「急がば回れ」で、人材育成を始めることにしました。これも、経験から得た教訓でした。学歴や履歴での雇用は、人間性や能力が測れず、輝かしい経歴の持ち主こそ、ありとあらゆることに対応せねばならないサテライトの医療現場では上手く合わせられず、逆に豊富な経験だけを引っ提げてくる職員にも、かき回されて艱難辛苦したからです。医療職者を育ててはみるものの、何年もかけて医療資格を取得した職員が、卒業(資格取得)と同時に辞めてしまうようなこともあり、そんなこんなで、辟易して人間不信に陥ったこともあります。理屈で分かっていても…理性で抑えて我慢しても、溢れ出す感情で「もう、他人は信じられないし、人材育成も止めよう」とまで思い詰めました。でも、その時所属していた20歳くらいの学生が私に「どんなことがあっても、ついて行って頑張る」と言ってくれたのです。その子は、国公立の看護大学に一発合格しているのだけれど、チャラチャラしていて茶髪にピアス、海のものとも山のものとも全くつかめませんでした。でも、何故だか私は「この子に、懸けてみよう」と迷わずに決めました。それからは、スパルタで私の全てをその子に注ぎました。これを皮切りに、「知的好奇心をくすぶる」「看護の本質的な魅力を打ち出す」人材育成に力を注ぐようになりました。その結果が、現在の離職率の低さに繋がっているのだと思います。私を応援してくれていた古株の看護師さんは、定年後も務めてくれていたのですが、リタイアされました。あの女の子は、家庭を持ち母となり、今でも看護部を支えてくれています。その子の同期達も頑張ってくれていて、後輩たちも続いて病院を担ってくれています。古株の男性職員が、医療の道を目指し医療資格を取得し、戻って来てくれた際に、「戻りたいと思える病院にしてくれて、有難う御座います」と掛けてくれた一言は、今でも忘れられません。彼は、無事に大学院も卒業しました。人に振り回され傷ついた印象が強く残る20年でしたが、それ以上に人に救われた20年でもありました。入職当初から一緒に頑張ってきた山中チーフは、一部の職員たちから「ヒットマン」と呼ばれ、滅多に涙など流さないのですが、あの当時の話をすると今でも涙します。リアル、鬼の目にも涙ですよ(笑)。山中チーフは、ずっと私の傍にいたから、一番苦労をさせた(迷惑は、看護部役職者全員にかけた💦)と思います。山中チーフとも、この病院で巡りあった仲間ですが、各々の人生の岐路には立ち会い、終生を共にする一人になりました。これからは、互いに健康管理をして共通の楽しみを継続し、互いに夢描く老後を過ごしたいです。

 私もビックリ⁉ 実は、今年の2月で入職して22年目にもなるのです。45床で6部署、50名余りの職員でスタートした病院が、クリニックや福祉・介護を合わせて15部署を超え、職員数も350名ほどになりました。開院して時間が経てば経つ程、大所帯になればなる程、舵切りや組織力を保つのが大変になります。組織の盛衰は、20年目からの数年の在り方にかかっているという信条(思い込み?)を私は持っているので、このタイムナウでも書いてきましたが、組織改革を段階的に行っています。ベストな世代交代もできそうですが、やり切った感はあるのに、まだまだやりたい事もあるので、第一線では期限を3年と決めて粘ろうと思います。今年は、様々な分野の実績と経費、業務量や人員配置などを勘案して修正、効率化を図り無駄をなくしていきます。また、2024年に増床し新築移転しますので、「50年経っても錆びない病院」「プライベートの保てる療養空間」をコンセプトに、後悔がないように準備したいと思います。昨年、2施設目を開設したケニア事業では、発展に向けた意識づけや組織の体系化に注力していく所存です。途上国を支援する夢も、高い志も持たずに、武居の意向に従い赴任したケニアで、10年以上も私が携われるとは思ってもいませんでした。赴任当時のケニアは、今のようにインフラも整備されておらず、テロも頻繁に起こっていて、警察官から賄賂を要求されることなど日常茶飯事でした。この様な環境の中で、文化も習慣も違うケニアで起業して形にするのは、本当に難儀でした。2013年から始めた巡回診療は、新型コロナウイルスの影響で2年余り実施できませんでしたが、無事に再開でき延べ受診者数は6万人を超えました。新たに、児童保護施設やスラム街にある学校でのヘルスチェック(日本でいう学童検診)も始めました。多分、私たちを「待ってくれる人がいる」から、自己生産型の活動が継続できるように頑張れるのかもしれません。それに加えて、知らず知らずのうちにケニアが好きになってしまって「戻らないと」と、意識的にも無意識的にも思うようになってしまったのだと実感しています。何と私は、あと3年も経つと、申請すればケニアの永住権も取得できます!(^^)!

 これまで、「自分たちの思い描く医療や看護ができる病院にしたい」という一心でイバラの道を一途に突き進んできました。成果が如実だった時には、つい驕り高ぶったこともあります。重責に耐え切れず、「人格崩壊した?」という時期もありました。私の長い人生の中で、この職場や仲間に巡り合えたのは、諦めて散らばっていたジグゾーパズルを手繰り寄せ、一つづつを苦慮してはめていき、最後の一かけら(自己達成感や自己肯定感)で完成させるための試練と経験を与えてくれているのだと思えてなりません。武居先生を始め関係者の皆さん、理想と希望を持って働けることに感謝しています。





令和4年1月 岩根