インフォメーション 〜time now〜



 年明け早々、中国から拡がったコロナウィルスが世界を騒がせていますね。インフルエンザと同じ様なものなのに、何故「ウィルス・クライシス」といわれる状況に陥ってしまったのでしょう。それは単に、中国政府の対応の遅れと対策の間違いにあります。この時代に、カミュのペストじゃないのですから、街を封鎖するなんてとんでもありません。中国は、「経済大国」だなんて言われていますが、途上国並みの国です。それ以下かもしれません。後手ゴテに回ってしまったものの数日で病院を建設したのは正解だと思います。ケニアにも感染を疑われる患者がいるのですが、ケニアでは検査ができず、ナンア(南アフリカ)に検査を依頼したそうです。しかし、「他国の検査はしない」と断られたようです。日本では、きちんと受診して診断を受け、治療しさえすれば心配のない病ですからね。

 今回は、平等に訪れる「死」と「老い」について考えていきたいと思います。随分と重いテーマのように感じますが、少しだけ一緒に考えましょう。「ピンピン、コロリ」は誰もが望む理想的な死に方ですよね。でも、そう上手くいかないのが現代の医療です。日本では、ヨーロッパのように安楽死は法的に認められていません。患者から医師が安楽死を懇願され実行したとしても刑法199条「殺人罪」に問われ、死刑か無期、もしくは5年以上の懲役がかされます。また、安楽死を何らかの形で手伝っても、罪を問われる可能性があります。他人を教唆、幇助して自殺させたり嘱託を受けて殺害しても、刑法202条により裁かれ、6月以上7年以下の懲役か禁固刑に処されます。ですから、日本では、「延命治療の選択」に留まります。私は、医療の現場で数多(あまた)の死に直面してきましたが、「そこまでして生きていたくない」「しもの世話までしてもらって生きたくない」など漠然とした意思表出はしていても、「死に方」について具現的に話し合っている方は稀です。ですから、どうしてもいざという時には、家族や医療者の意向、判断に「死に方」を委ねなければなりません。そこは、自身に置き換えてみても病状や意識の有無、心理状態で変わる判断なので、私でも悩むところだと思います。きっと、ウィリアム・アーネスト・ヘンリー(19世紀:英詩人)の格言「私が我が運命の支配者、私が我が魂の指揮官」のようにはいきませんね。

 若い時から老いを意識している人も殆どいません。介護施設入所は、ネガティブなイメージ、他人との共同生活への不安、住み慣れた家を離れたくないなどの理由から拒否する方もいます。私は、認知症でほぼ全介助状態にあった父を介護して心に決めたことがあります。「信頼できる仲間や姉妹と心穏やかに暮らして逝く」ことです。子供には、介護負担をかけたくないです。決して、父の介護が嫌だった訳ではありませんが、心身共に大変なのは否めないので、介護を経験したからこそ、我が子に同じ思いをさせたくないのです。「父は、私たちに感謝しているのに、何故文句や不満をある事ない事周囲に言うのだろう」という疑念、親戚や周囲から父の言葉を聞かされる度に、私の怒りは悲しみに満ちて心が空っぽになるのを繰り返していました。先の見えない介護に、心身が疲弊していた影響も大です。でも、今は「世話になり続ける情けなさとストレス」「計り知れない心身の苦痛と不安」からの言動で、父に一番近い介護者だったからこそだと理解できる様になりました。介護される側の葛藤です。一度は、家族と「死」や「老後」について、ゆっくりお話してみては?




2月タイムナウ 岩根
Keyword:老後と死